長安寺施食会 【開山忌】平成29年11月12日

TOPIC

 私は戴きもの 

  この私の生命そのものは、自分の意思ではなく、両親から頂戴しました。その両親にも親がいました。十代遡った親の数は千二十四人にもなります。すべての親は、「よりよく生きてほしい」という願いをもって子供を見守ってきました。
そして、水や空気・太陽の光等の大自然の恵み、長い歳月によって蓄積された腐葉土や石油などの鉱物資源、多くの動植物の犠牲の上に成り立っている食事などによって生命を維持しています。
遺伝子を受け継いだ肉体だけではなく、性格や考え方などの人格も生活環境の影響を強く受けています。
つまり、私という存在は、普遍的ではなく、環境や多くの縁を戴いて存在しています。

 有縁無縁に感謝

修理可能でも捨てられた家電、繕えば着られる服、残飯として廃棄された食べ物、害虫として駆除されたハエやゴキブリ、建物や道路のために切り倒された樹木等、すべては人間の都合によって廃棄されてきました。
ちょっと修理すれば使える家電や服は、「新調した方が安い」というだけで捨てられてしまいます。もし自分が残飯や虫たちや樹木だったならば、人間のために役立ったと喜んで死んだでしょうか。気づかずに踏み殺してしまったアリは命を全うしたと言えるのでしょうか。
私たち人間を含め、すべてはよりよく生きることを目指しています。すべての人やものが、よりよく生きて安心して死ねる世界こそが理想です。
しかし現実は違います。役割を全うしきれずに遺棄されたり、亡くなったりした精霊は、数え切れません。その多くの精霊は供養されることもありません。
施食会に行われる有縁無縁の数知れない「餓鬼さま」への供養は、生かされている事への感謝を表現し、他をおもう慈しみの心を育む仏行と言えましょう。