長安寺の由来

長安寺の由来

名称     山号は 冨川山(ふせんざん)
寺号は 長安寺(ちょうあんじ)
宗派     曹洞宗(禅宗)
當寺本尊   釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
開山     受天英祜(じゅてんえいこ)大和尚
開基     正木大膳時茂公 (長安寺殿武山正文大居士)
中興開基   里見義頼の室「御隠居様」(龍雲院殿桂窓久昌大姉)
創立年月   永正2年(1505年)

曹洞宗長安寺は、千葉県鴨川市宮山に在り、寺伝によれば永正2年 (1505年)に受天英祜(じゅてんえいこ)大和尚が開創された名刹である。以来、代々の住持の許に、多くの雲衲集まり、永平寺、總持寺の風儀と雲岫宗龍(本寺甲州広厳院開山)和尚下の禅風を挙吹して、房州の地に新たに参禅の道場を開き弁道につとめたのである。

元禄年間、本山より常恒会を允許され又、地方僧録所となり、明治2年の記録では常在雲衲20名を数える大叢林であった。(明治2年報告書参考)参禅道場として房州の奥裡に秘かに香気を発して今日に至っている。

 当寺開山受天英祜(じゅてんえいこ)大和尚は、今(平成22年)から466年前の天文13年甲辰(1544年)11月6日示寂された。その時八11歳であるから、出生は546年前の後花園天皇寛正5年甲甲(1464年)の年であり、その出生は甲州(山梨県)板垣氏であるとされる。(一説に豊後の人とも云う)幼少より出家の志強く広済寺で得度されてからは、大事を明らめ覚りを得ないうちは決して故郷に帰らぬと堅い決心をされ修行の旅に出られた。この間、30数人に及ぶ禅の指導者を訪ねられ最後に無嫡香健和尚を士峰(富士山)の麓に訪れた。無嫡和尚は、後に青梅の天寧寺に住した一華文英和尚の法嗣で、文英和尚が甲州の広厳院に在った時これに師事しその後は蹤跡が定かでないが万松と号し建忠寺に住した人である。

英祜師が無嫡和尚を訪ねた時、師は丁度面壁(坐禅)修行していた。英祜師は「特に遠方はるばるあなたをお慕いをして来た私に御言葉を下さい」と云ったが何の返事もなかった。再三に及んだが何の返事もないので、英祜師は荒い言葉で「和尚を打殺してやるぞ」と再問したがなお自若として何の言葉もなかった。仕方がないので支度を整え門の外へ出たがやはり後にひかれるものがあって垣より内を窺うと和尚はようやく坐禅が終わって外に出てきたので、英祜師は「如何なるかこれ和尚の正法眼」と問うと、「庵の南庵の北、山亦山」と答えられた。心肝に触れるものがあり遂に左右に師事するようになって20年の歳月が流れた。この間、薪水の労苦を重ねて厳しい修行を続けられて、ついにその心印を得て雲岫宗龍和尚系下の法衣を付授されたのである。

御開山英祜師の生まれたのは室町時代であり足利義政によって銀閣寺が出来上がったのは諸国行脚中の22歳のころであった。

長安寺所伝の嗣書によれば享徳元年壬申(1452年)一華文英師より無嫡香健師に伝えられ、英祜師は永正2年乙丑(1505年)12月24日無嫡和尚の室に入って嗣法された。時に44歳であった。

その年、たまたま、房州の君主 里見安房守源義弘公が長安寺を開創し、受天英祜和尚を拝請して開山とした。その翌年正木大膳時茂公(開基、長安寺殿武山正文大居士)の帰依を受け数年ならずして大伽藍が完成し、時茂の娘、里見義頼(里見義弘の子)の室「御隠居様」(開基、龍雲院殿桂窓久昌大姉)が開基とされた。

英祜師の徳を慕う多くの雲水が参集したと寺伝では説かれているが里見義弘の誕生は大永五年(1525年)であるので不可能であり、一説には里見義通の時代に正木時茂の父・正木時綱(開基、長清院殿古山正範大居士)が受天英祜和尚を拝請し、時茂の時代で伽藍が完成し、そして娘の「龍雲院」の時代に繁栄した【「復興記」では龍雲院を「中興大檀越」と記している。天正の乱で大多喜の正木家が滅亡したのをうけて、龍雲院が再興したという位置づけではないだろうか】と考えた方が自然である。現在、長安寺に安置されている位牌はこの三方、正木時綱・正木時茂・「龍雲院」の他に里見九代当主(龍雲院の長男) 里見義康(龍濳院殿傑山芳英大居士)、二代目正木時茂(龍雲院の二男)の正室(浄光院殿明室清鑑禅定尼)、そして(観室妙察大姉淑霊)の六位牌である。

師は自ら「受天民」と称し遠近より雲集した修行僧を厳しく指導し、長安道場の儀規を定めた。開山和尚の在山39年の演法がその後の長安寺発展の礎を築いたのである。そして弟子龍湫玄朔師に後事を託し天文13年(1544年)11月6日81歳で趺坐して示寂された。

受天英祜大和尚墓石