房総(小田喜)正木氏

長安寺の由来

 房総正木氏は、安房に土着した三浦氏の支族と理解されている。平安時代末から安房へ進出した三浦氏は、東京湾の海上交通への影響力保持をめざしており、鎌倉時代には佐久間氏・多々良氏・真田氏などの一族が安房へ土着した。鎌倉時代前半期には三浦の惣領や有力一族の和田氏の支配もおこなわれていた。

 正木氏は館山平野の正木郷を名字の地としていると考えられ、当初は安房国衙付近に勢力を持ったと考えられる。戦国時代の正木氏は長狭郡から朝夷郡にかけてを支配領域にするとともに、里見氏のもとで国衙奉行人という役割を与えられて、安房国ナンバー2の実力をつけていた。

 その人物が16世紀初頭に活躍した正木通綱である。通綱は当主里見義豊の叔父里見実堯とともに、水軍を管轄して内房で勢力を拡大していたため、これを危険視した義豊によって里見氏の本城である稲村城で里見実堯とともに殺害され(天文2年=1533年)、天文の内乱のきっかけとなった。

 内乱のなかで通綱の子正木時茂・時忠兄弟は実堯の子里見義堯とともに義豊を討ち、義堯が里見家の当主となり、時茂兄弟が義堯を支える体制がつくられた。天文10年代に正木兄弟は東上総の武田氏領へ進出し、弟時忠は勝浦を、兄時茂は小田喜を拠点に夷隅郡のほぼ全域を支配領域に加えた。

 小田喜へ進出した正木氏にとって長狭は由緒ある地として意識され、とくに長狭平野の中央部には通綱が居城にしていた山之城がある。その麓には時茂の菩提寺長安寺や憲時の菩提寺道種院などが建立されており、いづれも小田喜正木氏ゆかりの寺院である。小田喜城に居城しながらも長狭に菩提寺を建立するところに長狭と正木氏との関係の深さがうかがえる。

 小田喜に進出した正木時茂は大膳亮と称して里見義堯とともに小田原北条氏との対立を繰り返し、その武勇は「槍の大膳」と称えられるほどであった。時茂の名声は遠く越前にまで聞こえ、朝倉宗滴は「人つかいの上手よき手本」と讃えている。永禄4(1561)年に没すると子の信茂が継いだが、永禄7年の国府台合戦で信茂は討ち死にし、弟憲時が相続する。

 憲時も大膳亮と称し近接する万木城(いすみ市)の土岐氏との攻防を繰り返しながら、里見義弘に属して活躍した。しかし里見義堯・義弘父子が相次いで没した天正2(1574)年・6年頃を境に、里見家と距離を持つようになり、義弘の子義頼と梅王丸が相続を争った天正8年の内乱をきっかけに、梅王丸を破って家督を継いだ里見義頼と対立した。長狭・夷隅を義頼に攻略されて小田喜城に籠った憲時は、翌(1581)年小田喜城で家臣に殺害されてしまう。

 これによって正木氏領であった夷隅・長狭・朝夷は里見義頼が直接支配する領域となったが、長年の正木氏との関係をもっていた地域を安定的に支配するには正木氏の名跡が必要であった。正木時茂の娘を室にしていた義頼は、二男別当丸を小田喜正木家の養子に入れて血筋をつなぐことで、房総半島での里見氏の影響力を大きくすることに成功した。この別当丸が二代目大膳亮時茂となる。

 天正18(1590)年に里見家は豊臣秀吉の小田原征伐に参加したが、惣無事令違犯の罪に問われて上総の領地を失ってしまった。上総の里見家家臣は上総に残るか安房へ移住するかの選択を迫られたが、二代目時茂は里見家一門として安房館山へ転居、八千石の村々を知行する里見家最大の家臣となった。義康・忠義と若い当主が里見家を継ぐなか、義康の母であり忠義の祖母である初代正木時茂の娘がご隠居様として力を持ち、里見家を支えるようになった。二代目時茂も忠義を支えていたが、慶長19(1614)年9月に里見忠義が倉吉へ減封国替えの命をうけると、時茂も重臣として同様の処罰を受けた。倉吉の忠義を監視していた鳥取藩池田家にお預けの身となり、忠義の身代わりのように罪人として寛永七(1630)年に没した。池田家ではたいそう丁重に扱われたと伝えられている。

開基の墓石
開基   正木大膳時茂公(長安寺殿武山正文大居士)
中興開基 里見義頼の室「御隠居様」(龍雲院殿桂窓久昌大姉)

開基、中興開基墓石 開基、中興開基墓石2